何でも好奇心「日加貿易」

天野美恵子

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日本からの加奈陀への最初の入国者は1870年代だったと祖人から語り継がれている。在加同胞の脳裏には上州人で通称『桐生君』という人が明治16年(1883)サンフランシスコから北上して加奈陀入りしたと語り継がれている。『紀州又』や『勘助』も激動の開拓物語を伝道として残している。ススキ龍平、須賀じゅう、北兼和助、クチュウの大工さんの物語りもある。其の頃のBC州内の中心地は船で往来できる港町NW市であった。

「初期の故郷宅急便」

加奈陀と日本の貿易は宣教師が先導したのではなく、BC州に移住した日本人が故郷に送った魚類だった。フレーザー河口上流、中流に日本人集団地を築いた在加同胞の第一世は強健な身体を資本として『罵倒成功』『堅忍不抜』の精神を持って働き抜いた人々であった。言葉も判らず、風習も異なった環境の中で生活の糧を得て、家族を持ち村を築いた。日本人漁師は春から秋にかけて鮭業をした。加奈陀人が棄てたドックサモンを買い上げ、臓物は河に捨てその中に塩を詰め込んだ。加奈陀人は『紅鮭』しか食べなかった。捨てられた『筋子』を集めて塩漬けにして故郷に送ったのがきっかけとなり、故郷の人々は『米や味噌』を加奈陀の出稼ぎ移住者にお返しに送ったのが貿易の始まりだった。

「1860年代」

加奈陀は中国に丸太や製材を輸出していた。其の額は1872年に5万ドルに達していた。中国から加奈陀への輸入は『お茶』が主で1869年には其の額が12万ドルと記録に残っている。日本から初めて加奈陀に輸出されたのは加奈陀太平洋鉄道が消費する『石炭』と爆薬製造用原料の『硫黄』だった。日本からの加奈陀輸入は1871年には『絹』『緑茶』が中心で、1884年には総額90万ドルであった。1886年には太平洋航路ができてからは急速に伸びた。加奈陀から日本への輸出は丸太や鮭の塩付け、金属、小麦粉で金額は100ドル以上だった。

「温州みかん」

在加日本人が1891年に輸入した温州みかんは加奈陀人の間でも好評であった。東良蔵「加奈陀という国」という本によると加奈陀に日本のみかん市場を開発したのは和歌山県出身の人であった。米国オークランド在住の藤田俊夫さんが同県出身者の郷里からシアトルに送らせた数千箱みかんが爆発的人気だったので1908年に藤田氏が提携して在加同胞が加奈陀へ進出した。冬の長い加奈陀でクリスマスからお正月にかけて『みかんと緑茶』はビタミンC源として多くの人々に喜ばれた。第2次世界大戦前後は禁止され、1946年に解禁された。売り上げ額は1952年には109万ドル、1953年には123万ドルで日本からの輸入品の中で最高額を記録した。

「商務官」

1897年加奈陀政府は日本、横浜に初めてコマーシャルエージェント商務官を派遣した。加奈陀の連邦政府がBC州の日本人排斥政策を支持しなかった最大の理由は日本を含む亜細亜への貿易への期待があったからだと伝えられている。

「加奈陀産小麦のパン」

加奈陀という国が日本との貿易への関心を持ったのは大阪で開催された1903年の万国博覧会に出展してからであった。推進したのは当時バンクーバーで貿易を営んでいた田村商会の田村新吉氏であった。出展されたのは『小麦粉、果実、水産品、家具、紙、パルプ、ブリキ製品』であった。加奈陀産の小麦粉で焼いたパンが大阪市内のホテルやレストランに試食用に無料で配布された。加奈陀のシドニーフィシャー農務大臣は来日し加奈陀産小麦粉で焼いたパンを天皇陛下に献上した記録が残されている。

「加奈陀商品」

東京や札幌の街角で活躍している『テドリン情報システム』の技術は加奈陀のエンジニアが開発し、ソフト技術を日本商社が買い日本市場に広めたものである。丸善の外国書籍の『受発注文コンピューターシステム』はトロント大学図書館の『検索システム』を輸入して導入したものである。テレコミュニケーション企業の『ノーザンテレコム』が日本のNTTに電話機、交換機等を輸出している。音楽バンドも加奈陀ニューブランズウィク州にある打楽器メーカーの『サビアン社』が製作したものを日本へ輸出している。愛情単行本もトロントに本社をおくハーレークイン社商品ロマンス恋愛小説が日本に広まった。