レポート:こまがた丸の百周年記念の催し

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 バンクーバーのマスクイアム・コミュニティ・センターの大集会場の晩餐会に集まった大勢の参加者は、入場の際、入口で歌と太鼓で歓迎された。来客が指定のテーブルに着席しようとしている間にも歓迎の歌と太鼓が続いた。

 現在、よく知られているように、こまがた丸事件は100年前の1914年5月23日に起こった。船は日本の貨物船、乗客は376人の英帝国に所属する人々で、340人のシーク、12人のヒンドゥー、24人のイスラムを含んでいた。同船は直行便の法規をテストするためにイングリッシュ・ベイに到着したのである。この法規はインド出身者を締め出すために制定されたもの。船が2ヶ月間、バラード・インレットに停泊中、24人の乗客(再入国者)のみが上陸を認められた。船とその他の乗客はカナダを去るよう強制された。乗客がインドに到着したとき、29発の発砲があって、20人の死亡者が出たのである。

 こまがた丸乗客の経験は伝統的なマスクイアムの土地で催された晩餐会で、家族によって紹介された。さらに、こまがた丸伝統継承協会のハブハジャン・ギル会長からは新しいこまがた丸事件100周年の記念切手の紹介があった。

 グレーターバンクーバー日系カナダ市民協会(JCCA)人権委員会のロレーン・及川委員長がこの催しに参加し、JCCAのデレック・岩中会長の書簡をギル氏に手渡した。この書簡には「正義に反する事や人種差別と戦うことは継続的な責任であり、こまがた丸事件を想起し、そこから得られる有益な教訓を学ぶことによって、私たちの社会は人道に反する過去を乗り越えて進歩を続けて行くことができるのです」と記されてる。

 当日、挨拶を述べたUBCのヘンリー・ユウ博士は、7年前、同氏が共同委員長を務める「変化を記念する活動委員会」が日系、中国系、南アジア系のカナダ人や、先住民の代表から構成されていた事にふれた。この人たちは選挙での投票権、土地の所有、居住地の選択、一定の産業に就職することなどの可能性を組織的に奪われていた、と述べている。「大学や労働運動の関係者もこのグループに参加し、1907年の反アジア系暴動から100年を記念する催しや人種主義に反対する活動を計画しました。」「現在まで、私たちは1907年の反アジア系暴動を齎した白人優位思想の余波の影響を受けています。差別の法律の伝統や社会的な排斥などを完全に克服してはいないのです。」

 及川もこれに同意し、次のようには発言している。「歴史を知らないと、私たちは過去の誤りを容易に繰り返すことになります。第二次大戦の時代には日系カナダ人は不当に敵性外国人と呼ばれました。そして監禁され、財産が没収されました。日系カナダ人のコミュニティはそんなことは2度と起こらない、と思っていましたが、9月11日の事件の後にイスラム教徒と思われる人々は誰でもプロファイリングと敵視の対象となり、不安の念に駆られました。」

 及川はさらにコミュニテイ、労働関係者、学者などの協力関係を続けていく必要がある、と指摘した。「私たちが協力して共同で人種主義、人種差別の政策に反対の声を挙げるとき、私たちは影響力を持つことになります。」

 及川は晩餐会で「変化の記念」の関係者と同席したことに喜んでいる。2007年の[変化の記念]の催しに労働関係者として、また日系カナダ人コミュニテイの代表として参加した。これにはグレーターバンクーバーJCCAを代表として鹿毛達雄も参加していた。

 その夜催しには大勢の代表のスピーチやエンターテインメントで満たされていた。そしてこまがた丸100年記念の本の発表やカナダ郵政局の記念切手発行の紹介がその晩のハイライトとなった。(訳:鹿毛達雄)