バンクーバーの日系人収容所―ヘイスティングス・パーク( 続)

食堂で給食を受けるための列を作っている人達写真提供: 日系博物館・文化センター

食堂で給食を受けるための列を作っている人達
写真提供: 日系博物館・文化センター

厩舎が宿泊施設に

ヘイスティング・パークの収容施設では厩舎として利用されていた建物に何百もの二段ベッドが置かれ、女性と乳幼児を含む子供が収容され、男性は分かれてフォーラムと呼ばれた別の建物に収容された。1942年の 5月中旬から入居が始まっているが、BC州保安委員会による準備期間は2週間足らずで、掃除,改装も行き届かなかったようだ。そのため、従来、厩舎だった建物には糞尿の臭いがこもっていた。ベッドのマットレスは藁の入ったもの、そのほか軍用毛布が支給されただけ、という粗末な寝具だった。トイレも急造されたブリキ製の樋のような物、当初は仕切りもシートもなく、プライバシーが全くなかったと伝えられている。入居の時点で、牛馬や鶏など家畜はいなかったが、収容された日系人の中には自分たちは屠殺場に追い立てられる家畜のようだと 感じる人もあっただろう。

 食事は別の建物で調理され、食堂となった建物でアルミの食器で供給された。長い列を作って受け取り、横長のテーブルについて食べるまでに時間がかかって、冷めてしまうという状態であったと伝えられている。

 提供された食事も一度に大量に作られたもので、幼児や年寄りの口に合わないもの ―― シチュー、ジャガイモ、ポリッジ(オートミール)、パンとバターなど当地の「洋食」だった。この点についてBC州保安委員会の1942年の報告書は以下のようにコメントしている。

「ヘイスティングス・パーク滞在中に、日系人は食品の価値について数多くの有益な教訓を学びとった。滞在中に日系人がまともな食事の基準とはどのようなものかについて学ぶよう、あらゆる努力が払われた。」(p.8)

 この表現は当時の政府側担当者の日系人に対する偏見や優越感の反映と言えるだろう。

 実際に、収容された日系人の多くはご飯、魚、新鮮な野菜や果物などがないのを寂しく思ったようだ。供給された不味い食事を嫌い、テーブルの上にぶちまけるというハンガー・ストライキが起ったこともある。しかも衛生状態が悪く、集団の下痢が発生したことがあると当時の体験者(田上トム氏、水藪幸治氏)は語っている。

収容所内の洗濯場写真提供: 日系博物館・文化センター

収容所内の洗濯場
写真提供: 日系博物館・文化センター

日系人の不安とストレス

 総じて、当時のヘイスティングス・パークの雰囲気は緊張し、無力感と将来の不安に満たされていた。女性はプライバシーを気にしながらの子供や家族の世話で時間をとられていたが、男性は手持ち無沙汰で、トランプ、賭博、飲酒などで時間を潰していた、と伝えられている。人々は誇りに思う財産や職場・職業、あるいは家族と一緒の日常生活やコミュニテイでの地位などを失っていたし、この収容所でどのくらい滞在しなければならないかの予想も困難であった。このような当時の人々の不安や心理的なストレスには現在の私たちの想像を超えるものがあったと思われるのである。  

 以上、ヘイスティングス・パーク収容所の概要について説明した理由のひとつは、最近、JCCAや日系博物館・文化センターなどを含む日系人諸団体がバンクーバー市やPNEと協力して委員会を作り、この歴史的遺産の保存のために、ヘイスティング・パーク内の建物の表示板や当時の写真入の建物の説明の展示などを準備しているからである。同委員会の最近の活動については、本誌5月号にJCCA人権委員会のジュディ・花沢さんが報告している。(英文、p. 23)今回、特に日系博物館・文化センターのべス・カーター(Beth Carter)さんから提供していただいた展示の原案は当時の日系人の経験談など 有益な資料を含んでいて大いに参考になった。さらにカナダ図書文書館(LAC)所蔵の「BC州保安委員会の報告書」(Removal of Japanese from Protected Areas: Report Issued by British Columbia Security Commission. Vancouver, B.C. n.d. [1942].)も参照した。

[文・鹿毛達雄]

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