この素晴らしき世界(その2)

 ルイ・アームスストロング等のヒット曲<この素晴らしき世界(What a Wonderful World)>のノリで、体験したり見聞きしたことのある各国諸民族の長所、好ましい特徴を挙げてみる試み、その後半はまず地中海に突き出た長靴のようなイタリアから。今日世界中の大衆がその文化に接する媒体はなにより<イタリアン>、ピザやパスタに代表される料理だ。ふんだんに用いるトマトが食材に<旨み>を与える天然MSGが含有することも理由の一つではないか。

 また<テンポ、フィナーレ、フォルテ、ピアノ、スタカット、プリマドンナ>などの言葉に見られるように音楽関係、ミケランジェロに代表される美術関係の影響を、ピノキオ、クオレなどの文学作品、さらにフェリーニに代表される映画やファッションを通したイタリア人のイメージはある。高校時代、通信社勤務や観光旅行などおよそ2年半におよぶ経験においてイタリア人の(厳密にはローマ、フィレンツェ、ナポリ、サルデニアの人達くらいだが)好きな所は料理や芸術のセンスのほか人懐こさ、感情の温かさだ。

 特に彼らの子供好きはヨーロッパでは定評がある。もう10年前だか、まだ幼かった長男長女を連れての観光旅行中に訪れた、アドリア海の港町アンコーナに程近、ギリシャ人統治時代まで遡るオーシモという町でのことだ。子供たちとある青物屋で果物を買い、店を出て歩きだすと誰かが息せき切って追っかけてくる。振り向くと店主のオジサンではないか。「これを坊ちゃんとお嬢さんに」とお大粒の真っ赤なイチゴを二つ差し出て言う。オジサンの笑顔と目を輝かせた子供たちの表情が忘れられない。

 地中海沿岸と言えば、スペインはサンセバスチャン、マドリッド、バルセロナを旅したくらいだが、あのサグラーダ・ファミリア大聖堂を始め<ガウディの魔法>に包まれたバルセロナが素晴らしかった印象の他、国民性はまだ良くわからない。やはり小旅行で訪れたギリシャもモロッコ北部も楽しかったが、これも然りだ。

 記憶の世界めぐり、この辺で再び東洋に立ち戻りたい。日本人の史観から言えばスペイン領バスク地方は、1549年日本に初めてキリスト教をもたらした有名なイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの出身地だ。ポルトガル王の命でインドのゴアに派遣され、以降マラッカから日本を訪れた彼は途中インド、アラビア海に面するコーチンにも立ち寄っている。14世紀から重要な港町として香料貿易などで繁栄、1503年にポルトガル領となり、その後、オランダ、マイソール王国や英国に統治された歴史豊かな古都だ。

 キリスト教家庭に育った当方、ザビエル神父のことは幼い頃から聞いていたが、後にそのゆかりの地の一つを訪れることになるとは想像もしなかった。家内はもとインド系シンガポール人(現カナダ国籍)だが、お母さんの実家が現ケララ州コーチンから数時間の村にある。約4年前一家でシンガポールを訪れた際に「ついでにインドの親戚にも会いに行こうか」と、お母さん、家内の兄夫妻と共に1週間ほどの運転手付ミニ・バスによるケララ名所巡りを敢行したのだ。空路僅4時間ちょっと、あっけない程簡単に同州州都トリヴァンドラムに着いてしまった。長い間何となく<訪れる機会がないだろう遠い国>と思っていたのだが。

 一口にインドといってもヨーロッパくらいの面積に数百もの原語を用いる諸民族が共存している大国だ。シンガポール(以降、星州)やバンクーバーにもインド系の友達がいるが、数学力に長けているなどの常識以外は、とても国民性などを論じる資格はない。ただケララの親戚たちや各地の友達との交流の範囲で気に入っている点といえば、初対面の外国人の親類でも家族全員で精一杯にもてなしてくれる温かさ、それとあの首を左右に振る仕草が伴う、ユーモアを交えた会話術を挙げたい。

 次は東南アジア。1981年から16年間星州の新聞社や出版社で働き、地元の女性と結婚して二児が生まれたことで、インドネシアはバリ島、マレーシアやタイの名所旧跡や海岸リソートを幼なかった子供たちと訪れたのも懐かしい思い出だ。他に取材でミャンマー(ビルマ)やラオスも訪れる機会もあった。

 星州の出版社でミャンマー航空の英字機内誌の編纂も担当していた関係で首都ヤンゴンなどを2度訪れたのは20年程前だった。更にずっと昔の1956年、小学生の頃に母、妹と共に東京から父が勤務するロンドンまでプロペラ旅客機で2日間かけて飛んだことがある。その際給油ストップでラングーン(当時)国際空港で数時間くつろいだのだが、今回驚いたのは空港ターミナルがまだ昔の木造施設のままだったことだ。(ターミナルはその後新設された。)

 90年前半当時はまだ数少かった英語観光ガイドのA氏には取材で知会ったのだが、旧知の友のように不思議と<波長>が合う。未亡人の母親と兄弟と暮らしていた彼、みな恐らく敬謙な仏教だろうが、「是非お母さんに会わせたい」と鬱蒼とした林の中の木造の自宅に招いてくれた。家庭料理をご馳走してくれたお母さん曰く「貴方たちは前世でも友達だったのでしょう。」好奇心に満ち、いかにも善良そうで誠実、温厚なA氏の人柄が忘れられない。

  知性に満ちた眼差しと人懐こいスマイルが印象に残るA氏、普通小柄なミャンマー人には珍しく身長180cmはあろう大男だったが、奇しくも、スマイル、背丈から浅黒い肌までA氏にそっくりな旧友がいるのだ。 確か1968年通信社のローマ支局に勤めていた頃友達になり今でも連絡を取り合っているフィリピン人のC氏だ。当時は建築事務所に勤める駆け出しの建築士だったC氏とある生演奏が聴けるバーで知合ったのだが、以降半世紀近くサンフランシスコ、マニラ、東京、シンガポールそしてバンクーバーと機会があるたびに旧交を暖めてきた無二の親友だ。いわゆる<恵まれた家庭>で育ったにせよ彼の洗練された国際センスや英語にタガログ語、さらにイタリア語、スペイン語までこなす語学力には今でも感心する。その友達にも数名会ったことがあるが彼らの教養とユーモアのセンスは、日本の外交官などいわゆる上流階級のそれにも優るのでは。

   さて東南アジアまでくると、すでにそこは華人の世界だ。広東人、福建人、潮州人、海南人、広東・福建両州あたり出身の客家人等々中国にルーツがある華僑系が、星州、インドネシア、マレーシア、タイやミャンマーの経済の中核的位置を占めている。子供たちの名付け親、今でも親しくしている元同僚やジャズ仲間まで殆どいわゆる華僑だ。華僑といえば東京で通った小学校にもアメリカン・スクール(高校)でも主に台湾系の友達がおり、その一人とは2年前トロントでの同窓会で旧交を暖めた。また香港人も独特な<人種>だが、バンクーバーに来てからは子供たちの仲間やホームステイの学生を含め、意識しないほど多数知り合った。中国本土の人々は、ここ10年くらいか来てからは星州でもバンクーバーでも店員、銀行員など多く見かけるようになり、遼寧省出身の語学留学生がホームステイしたこともある。

 これだけ多種多様の中国人、華僑たちに共通する長所とは? 中国文化を論じる程の見識はないが、あくまで私見として体験に基づく2点をあげたい。華人たちの実用性と合理性、及び独特の公平観念だ。再び分かりやすい食生活を例にとれば、まず調理法が実用的だ。大まかに言えば大包丁と中華鍋(wok)で揚げ物、蒸し物、炒め物と何でも作れるのだ。鍋、包丁に場所と食材が揃えば準備万全。すぐに立ち上げられる商売として、飯店や屋台が仕立屋と理髪店と共に<三刀>と呼ばれる所以だ。

 その公平観念は中華料理店につき物の回転盤式円卓に表れている。要するに上座も下座もなく、着する者は全員同格で主役がいる場合は始めに先ずその人が全員に料理をよそってあげる。また普通10人向けの円卓でも詰めればあと2、3人は坐れるので誠に合理的だ。

 最後にお隣の朝鮮・韓国の人たちだが、長所として、情熱豊かな音楽的才能、そして庶民の日常生活における親切を挙げたい。1960年五輪ローマ大会に前後して通信社駐在員を勤めた親父と共に一家同市ですごしたのだが、時々サンタ・チェチリア音楽学校で声楽の勉強をしていた韓国人留学生が遊びにきたものだ。その頃からパワフルな歌唱力など彼らの音楽的才能に瞠目してきた。ダイナミックな踊りも含めて昨今アジア各国でKポップスが大人気を博しているのも納得できる。

 星州で機内誌の編纂をしていた頃、友人の日本人ライター(本職は語学教員)に韓国旅行記を書いてもらったことがある。記事中彼が驚いていたのが一介の日本人ライターに対する親切の数々。ある町の安宿で「早朝汽車に乗るので起こして下さい」と頼むと、おかみさんが起こすばかりか、食べ切れない程の品数の朝食を用意してくれる。駅に行って切符売り場や乗車ホームがよく分からないと駅員が走って切符を買ってきてくれ、ホームまで案内してくれる、という具合だった。バンクーバーでの身近な例では 近所で文房具屋兼郵便局を切り回す中年夫婦や新聞、タバコや飲料などを取扱うキオスクのオヤジさんがいる。皆けっこう気が利いて親切だ。

 あくまで私見だが限られた体験の範囲で思いつくまま諸民族の長所を連ねてみた。言うまでもなくどの民族にも善人と悪人は存在しよう。だがもし良い人ばっかりだったらと想像するとWhat a Wonderful World! 皆さん共々できれば<善人たち>の一人でありたい。

  結びに、昨夜今年のバンクーバー<ジャズ・フェス>の公演の一つ、ピアニスト・上原ひろみさんの演奏を聞きに行ったが、まさにシビれた。もし当方が外国人だったら、彼女が体現する芸術性と才能も日本人の長所として挙げることだろう。