「招かれざる客たち」の戦後(1)

 1945年8月の敗戦とともに、生き残った300万以上の日本兵、満蒙開拓民、海外居住者など総勢600万以上がぞくぞくと日本へ引き揚げてきた。日系カナダ人約4千人もその一部を構成していた。彼らは概ね一世親と二世だったが、二世にとってそれは「帰国」ではなく「国外追放」だった。

 半世紀後、壮年となった在日の日系カナダ人二世10人へのインタビューをもとに「日系カナダ人の追放」(1998年・明石書店)を著したのが、歴史学者でバンクーバー地区を代表するコミュニティワーカーの鹿毛達雄さんだ。2012年、その英訳版「Uprooted Again」が出版された。英訳版出版に際し、鹿毛さんから頼まれて紹介文を書いたことを思い出した。和訳するとこうなるだろう。

 「根こそぎ奪われ、隔離され、排除され、追放された日系カナダ人たち。カナダと日本の両側から『招かれざる客』として扱われた人々の生の声。控え目だが哀切で苦悩に満ちた物語を、戦後移住者の一人である鹿毛達雄が取材し一冊の本にまとめた。

 1946年、3964名のカナダからの『送還者』が焦土と化した日本に到着した。飢えと混乱の中、人々は『耐え難きを耐え』ていた 。『送還者』の半数以上は、カナダ生まれだったが、一家を飢えから救ったのはこれらの若い二世である。こういった『招かれざる客たち』の多くは、成人後あたかも鮭が生まれた川を遡上するようにカナダへ帰っていった。一方、残った人たちは日の丸の旗の下で相変わらず『客』として生きてきたのである。

 この書は、こういった日本人を先祖とする人々にとって、国籍とは何か、市民の権利とは何かをわれわれに問いかけてくる。注目すべき点は、あからさまな、あるいは微妙な人種差別にもかかわらず、日系カナダ人たちは、法を遵守する『招かれざる客』として、どちらの国においても良き市民となるべく、粛々と生きて来たことだろう。」

●廉価な「労働力」としての移民

 「明治元年組」と呼ばれるハワイ、北米への移民に始まり、東南アジア、ブラジルや南米諸国、更に中国大陸への開拓移民は250万人に及ぶ。一方、日本は海外派兵で失った戦時中の国内労働力を、中国や朝鮮半島から動員した労働者や、戦前から居住するコリアンたち200万人で補った。彼らは、戦後、引き揚げて来た日本人と入れ違いにどんどん送り返された。現在、日本に居住する在日朝鮮韓国人60万人は概ね、その残留者と、戦後、済州島などから職を求めてやってきた人たち、加えてバブル期のニューカマーたちで構成される。

 1923年の関東大震災の後、日本政府は12歳以上の罹災者を対象として支度金200円を付けてブラジル移民を奨励した。受入れ先は奴隷制度に代わる廉価な労働力を欲していたのだ。当然にも、条件も環境も劣悪を極め、帰国や逃亡のため定着率は低かった。第一回芥川賞を受賞した石川達三著「蒼茫」(1935)は、初めて移民を扱った社会小説である。

 移民とは、人口過多、失業対策が生み出した口減らし政策であり、外貨を稼ぐ輸出品だった。同時に「コロニー」という名の小さな植民地を外国に植え付けて、日本の海外発展の基地とするための「先兵」でもあった。「追放」されてきた日系二世たちの物語は、政治に翻弄される移民の宿命と悲哀に満ちている。皮肉なことに、彼らの持つ異文化と英語力は戦後日本の発展に大きく寄与したのである。

 今日、日本は人口が自然減少し、労働力が不足し始めているという。ならば、今度は、日本が移民受け入れ国になるのは当然の帰結のように思える。その意味で、日系二世の体験から学ぶべき教訓は多々ある筈だ。1991年以来、僕は帰省する度に二世にインタビューしてきた。後に、鹿毛さんが助成金を獲得して本格的にこの問題と取り組むのを見て任せることにしたが、以下は僕自身が取材した記事の抜粋である。

●焼け跡を目の当たりにした時

自営業・中野ジョージ英男さん(撮影・田中1991年7月)

自営業・中野ジョージ英男さん(撮影・田中1991年7月)

 沈没した戦艦の舳先が海面に屹立する浦賀港を送還船から見下ろした時、「非常に悲しかった…ひどい有り様でした…親父になんでこんなところに連れてきたんだとくってかかりました」と語るのは中野ジョージ英男さん(1928年生まれ)だ。18歳だったジョージにはカナダに残るという選択肢もあったが、「父が帰るというからには反対はできません。でも、気持ちは半々だったかな」という。  

 進駐軍の通訳の仕事を通じて、物資の横流しの会社を起こして米軍基地を「千歳から立川まで走りまわった」。二世妻との会話は日英両語が混在する。帰国当初の苦労は「忘れちゃったなあ。昔のことに拘っても仕方がありませんからね」と笑う。その口ぶりは、老一世が万感の意を込めて「仕方がない」と語るのとは異なる。国境に縛られない自由な企業家の姿がそこにあった。(日系ボイス1992年6月号掲載)

主婦・池部千鶴マージさん(撮影・田中1991年7月)

主婦・池部千鶴マージさん(撮影・田中1991年7月)

 一方、池部マージ千鶴さん(1934年生まれ)は、帰国時の体験が45年経てもトラウマになっていた。浦賀で下船するやいなや、目前で父が5、6人の男に袋叩きにされた。父は抵抗もせずじっと耐えていた。収容所では八紘会という互助会の幹事だったというから、父自身も皇国の徒だったはずだ。暴漢とは、「強硬派」と呼ばれる国粋主義者だろう。カナダ政府に協力的な人間を「犬」と呼び暴行を加えたことはアングラー捕虜収容所の記録に明白だ。彼らにとっては祖国の勝利を信じてPOWキャンプに居続けることが日本人の証だった。だが、日本の敗戦を確認した時、やり場のない憤りが日系のリーダーに向かった。この怒りが政府首脳に向かわなかったところに、「神国」日本の問題がありそうだ。アングラーの記録から、こういった強硬派が柔道や剣道、朝日軍の選手であったことが読み取れる。

 マージさんは転入した小学校でも「石をぶつけられ…アメリカとかパーマ(ネント)等の悪口も言われました」という。取材後に「これはまだ記事にはしないで」と口止めされたが、僕は書いた。痛苦な歴史の真実がそこにあるからだ。後に鹿毛さんの著書にも同様の告白があるのを見つけた。語ることで癒される傷もある。(同年3月号掲載)

kaz Ide

 1991年、在日日系カナダ人協会会長の井出和之さん(1930年生まれ)がトロントに来た時、いまだに差別を恐れるカナダ日系人の内向性を批判し、同時に、日本の進出企業の横暴さを嘆いていた。その後、東京でインタビューした時、「あなたは日本人じゃないとよく女房に言われる」とぼやいていた。自身は「日本は仮の宿」と断じ、「永住の地を見つけたい」と言っていたが、1993年に永眠された。ヤドカリは死して尚ヤドカリ。彼の辛辣な物言いは、どこにも属さない「在日カナダ人」のプライドの表れだったと思う。

[文・田中裕介]