「トラ・トラ・トラ…」74回目のあの朝

宮崎孝一郎著「明けゆく百年」(自家版1974)。辻信一著「日系カナダ人」(1990)に「捕虜収容所日記・序」として部分的に掲載されている。

宮崎孝一郎著「明けゆく百年」(自家版1974)。辻信一著「日系カナダ人」(1990)に「捕虜収容所日記・序」として部分的に掲載されている。

 「戦後70周年」の暦がもうじき変わる。世界各地で紛争は続き、めくる暦も更にきな臭いものになりそうだ。9.11に対する報復としての “War-on-Terror” (対テロ戦争)は燎原の火となって地球を舐め尽くしてしまった感がある。徐々に世界大戦にのめり込んでいる気配さえ感じる。

 この火を塞き止めるために今できることは、小説「永遠のゼロ」の大ヒットに見られるような、 戦争を正当化、美化するあらゆるものに警告を発し続けることだと思う。まずもって “War-on-Terror” (対テロ戦争)という言葉自体が、形容矛盾であることに気づいてほしい。殺される側に立ってみれば、一般市民を巻き込んだ戦争に、テロリズムでない戦争などないからだ。

 1941年12月7日。日系人たちは自分たちを直撃した「テロ(奇襲)」を決して忘れない。 その日、子供たちが日曜学校から帰って来た時、自宅で待っていたのは「Jap plane attacked Hawaii, Manila…. 」と連呼するラジオのニュースだった。日本側は「トラ・トラ・トラ」とモールス信号を打ち、「奇襲成功せり」と歓喜雀躍していた頃である。バンクーバーの日系紙記者で日本語学校の校長・宮崎孝一郎さんはその朝のことをこう記している。

●宮崎孝一郎著「明けゆく百年」(抜粋)

 …息が止まるようなショックを受けた。…馬鹿な、信じまいとスイッチを切った。手は震えている。…妻は忙しく皿を洗っていた。「戦争だぞ!」。声は震えていたようだ。「そう」と相手にならない返事だ。「日本がアメリカを、ハワイを攻めたらしいんだ」。妻は皿から手を放しながら「冗談でしょう。…聞き間違いよ。あなたの英語じゃ、あやしいワ」…

 けたたましく電話のベルがなった。…「本当ですよ!とにかく本当です」。Iさんの早口は震えているようだった。…

  「I」とは、大陸日報社の編集長・岩﨑輿理喜のことだろう。この記者と編集長の動転ぶりに、如何に日系社会がそれまで安閑としていたかが見て取れる。神保満著「石もて追わるるごとく」(1975)は、地元日系社会に関する記事が中心だった大陸日報が満州事変以降、日本のアジア侵略を伝える記事が一面を占めるようになったと記している。この「安閑」はどこからくるのか。

 1930年代、 日系社会は漁業免許を削減され、職を奪われ、日ごとに激化する排日に直面していた。一方で、日系人は満州傀儡政権樹立、日本軍による上海や南京の陥落が、西洋列強からアジアを解放する正義の戦争であると信じきっていた。その実態が数千万人の殺戮を意味し、国際連盟側の諸国にとって如何に日本が脅威となっていたかを、一世たちは知る由もない。だから、帝国日本軍と朝日野球軍の勝利は、同レベルの日頃の鬱憤を晴らす朗報に過ぎなかったのではないか。

 翌日、宮崎さんは次第に「胸が軽くなり、急に口笛でも吹きたい衝動」に駆られる。「…太平洋上に乱舞する、真紅の日の丸を描いた祖国の戦闘機の勇姿が瞼に踊った」と記している。1902年千葉県に生まれ、27歳でカナダの日本語学校に赴任してきた宮崎さんだが、「…新渡戸稲造の武士道にひかれ、北米に渡るに際してひそかに心に期したのは吉田松陰の塾のようなものだった」という(辻信一著「日系カナダ人」)。大川周明著「日本精神」が本棚にあったというから、大東亜共栄圏の構想を信奉する壮士だったのではないか。

●「悲劇役者の一人」となる覚悟

 開戦直後に逮捕された40名に宮崎さんは含まれていない。日系社会は「今太閤さん」と揶揄される博徒の親分・森井悦治率いる時局委員会(森井委員会)により、新聞社、日本語学校が自主的に閉鎖された。また、男子を道路キャンプに送り出す事で妻子の移動を回避できるだろうという森井の勧告に、日系社会は動揺する。「回避」の保障は全くないからだ。だが、男たちは、森井の威圧的態度に異を唱える勇気がない。宮崎さんの「日本人代表者大会スケッチ」の記述にその緊迫の度合いが見て取れる。

 やっと出てきた反対者の一人は「U」だった。梅月高市だろうと思う。梅月は、労働組合日刊紙「民衆」の編集者であり、開戦と同時に、ニューカナディアン紙の日本語編集者になっていた。興味深いのは、それまでリーダー格だった国粋主義者たちが開戦と同時にごっそり連行されたために、みな自分はいつ逮捕されるのかと戦々恐々としており、 代わりにそれまで「アカ」と下げすまれていた労働組合員たちが台頭してきたことではないか。この傾向は戦後の日系社会の民主的再編の中で明確になってゆく。

 そして、二世たちがどっと乗り込んできて、森井の時局委員会は一挙に力を失い、代わりに帰化人会と二世代表者会議が代表権を得た。だが、政府の家族分断策は変えられず、妥協案を提出するのみだった。そこへいきなり二世のラジカル派が登場する。この家族総移動グループ(NMEG)の執拗な反対運動が政府を動かした。 政府は家族総移動を受け入れ、二世幹部たちは胸を張って戦争捕虜収容所に向かっていった。

 「戦争だからといって敵国人扱いを受ける理由はどこにもない」という二世リーダーの発言は、今日のモスリム系カナダ市民の思いに通じるだろう。一方、一生・宮崎さんは、道路キャンプ行きを拒否して自ら戦争捕虜となる。この時、

自分を一兵卒として自覚し、妻にも出征兵士を送り出す覚悟を求めている。敢えて「悲劇の役者」になる道を選んだ。こうして、日米開戦は多くの一世と日本で皇国教育を受けて来た帰加二世を日本回帰志向にし、第五列に並ばせた。

 続く香港陥落、翌月のマレー作戦、シンガポール陥落により、連合国側兵士10数万人が日本軍に投降した。そして終戦まで、国際法無視の非道な扱いを受けた。戦争史家ジャック・グラナシュタインが、北米在住の日系米人11万、カナダ日系人2万余の強制移動と収容を「相互人質」と呼ぶ所以である。

 この「相互人質」の言説をもって、カナダ政府が日系人全員を十把一絡げにし、財産を没収した総移動政策を正当化することはできない。あまつさえ、政府は、日系人全員を日本へ「追放」しようとしたのである。

 冒頭で “War-on-Terror” は「oxymoron形容矛盾」だと書いたが、この「矛盾」語は核分裂のように拡散する危険な言葉である。相互理解の欠如が、恐れと嫌悪を生み出し、相手を全否定し抹殺することで自分の平和を維持しようとする。それが戦争だ。そして相手は憎悪を増殖させ、報復の動機を正当化させてゆく。この「矛盾」は人類が破滅するまで続くのではないか。

 今年は「戦後70周年」を特集してきた。来年は、 日系社会の戦後復興期を再訪してみたい。

「敵性外国人男性に告ぐ」という告示を掲示する警官。日系ボイス1991年12月号に掲載されたマイケル・フクシマが描いた挿絵。現在はNFBアニメ部門の責任者として活躍するマイケルだが、1989年から10年程、日系紙の挿絵家としてキャリアを始めた。

「敵性外国人男性に告ぐ」という告示を掲示する警官。日系ボイス1991年12月号に掲載されたマイケル・フクシマが描いた挿絵。現在はNFBアニメ部門の責任者として活躍するマイケルだが、1989年から10年程、日系紙の挿絵家としてキャリアを始めた。

[文・田中裕介]