《太平洋往来史》川端家二代の125年(1)

March.Kawabata.bellboy.10cm

  北村高明さんは「自分はカナダ人なのだと信じていました。ですから頑として立ち退きに応じなかったのです。不合理な話です。道路キャンプなどに行けますか」(日系ボイス1991年8月号)と言い放ち、1946年7月までオンタリオ州アングラー戦争捕虜収容所に居続けた。寡黙で実直な明治の硬骨漢だ。NAJCの個人補償要求を支持した希有な一世であったことがそれを証明している。

 北村夫妻は、この写真が撮られたすぐ後に再会しトロントに移り住んだ。だから僕は、てっきり東部へ向かう人達を写した写真だろうと思っていたが、間違っていたようだ。最近、その確証を得た。

 昨年暮れに帰省した際に、日加協会の浪田先生(北大名誉教授)が、札幌在住の二世・川端貞夫ジョージさんを伴って、僕のホテルまでインタビューのために来てくれた。そして開口一番、川端さんは上掲の写真を取り出して、「ここを見て下さい」と左下のトランクを指差した。そこに「KAWABATA」と書かれてあった。写真はまごうことなく、西海岸経由で日本へ向かう人たちとの「今生の別れ」の場だった。この日、北村夫人は彼らを見送りに来ていたのだ。こうして川端家は日本へ「送還」された。ジョージは10歳の少年だった。

 そして幾星霜。2013年、ジョージは日系人収容から70周年を記念して制作されたNHKのドキュメンタリー番組「沈黙の伝言」を見た時、そこに映し出されたスローカン時代の学級写真に自分を発見した。

1946年5月、スローカン駅で西海岸へ向かう汽車を待つ人たち。(ケン・アダチ著「The Enemy That Never Was」掲載)

1946年5月、スローカン駅で西海岸へ向かう汽車を待つ人たち。(ケン・アダチ著「The Enemy That Never Was」掲載)

● 出稼ぎから定住への移行期

 父・川端貞一(ていいち)は1890年、和歌山県根来で生まれた。1906年にハワイ経由で米国本土を目指したが、「ハワイで一旦下船したら米本土行きに乗り遅れてしまい、飛び乗った次の便がカナダ行きだったそうです」と息子ジョージがいう。だが時あたかも米国西海岸では、アジア人排斥の嵐が吹き荒れていた。明くる1907年、米国のAsiatic Exclusion Leagueの活動家が、今度はバンクーバーで白人労働者を組織し、日本人の流入を阻止する運動を煽動した。

 そして9月、約一千人の暴徒によるバンクーバー暴動が起きた。1908年、家族呼び寄せ以外は年間400人に制限された。つまり、ジョージの父はカナダの日本移民に対する規制が緩く大量に入ってきた頃の最後の一陣にいた。以後、日系社会は男ばかりの出稼ぎ集団から家族単位の共同体に移行してゆく。当時のバンクーバーの人口は10万人ほどで、日系人は1700名(1908年)足らずだった。

 一方、スティーブストンにも和歌山からの出稼ぎ者を中心とする同規模の日系共同体が形成されていた。だが、16歳の貞一少年はここには居着かなかった。最初から同化志向だったのかもしれない。英語でトム・カワバタと自称した。

 「父は肉体労働が嫌いで、避暑地として有名なアルバータ州レイク・ルイーズのホテルで、長くベルボーイとして働き、勤勉さが認められて表彰されています」。このシャトー・レイク・ルイーズ・ホテルは、昭和天皇が皇太子時代に滞在したこともあるというロッキー山脈の景観を誇る名宿だ。

アルバータ州のシャトー・レイクルイーズ・ホテル。得意客を出迎え、客室まで案内するベルボーイの「No.2」川端貞一トム。後にチーフになった。 (川端貞夫・篤氏提供)

アルバータ州のシャトー・レイクルイーズ・ホテル。得意客を出迎え、客室まで案内するベルボーイの「No.2」川端貞一トム。後にチーフになった。 (川端貞夫・篤氏提供)

 ニューヨーク在住の上客から、「あなたのホテルのあのJap(原文ママ)は間違いなくベルボーイNo.2である。彼が我が家のサーバントになる気があるのなら、是非とも雇いたいものだ」という同ホテル宛の感謝状(1924年)が遺っている。なんとも傲慢で差別の臭い紛々たる褒め言葉だが、当時の白人たちの意識が如実に反映されてもいる。

 ルイーズ湖で働いていた日本人は彼だけではなかった。ビクトリア・ニッポンズの外野手として活躍した永野萬蔵の長男龍夫ジョージは、1920年に結婚した後、継母とうまくいかずバンフの高級ホテルで働いていたという記録が残っている。同年代の貞一さんと友だちだったかもしれない。二人とも立派な体格で制服姿が際立っている。仕事にプライドを持っていたに違いない。ちなみに、息子ジョージの証言によると、戦後に日本に帰った後もいつも山高帽にタキシード姿の「ちょっと変わった人だった」ということだ。

 1928年に帰省して妻セイを娶り、3人の子供に恵まれた。こうして、貞一さんは戦争勃発まで、 夏の間はルイーズ湖、そして、翌春までバンクーバーに戻って、妻と一緒にパトリシア・ホテルに近い「371 Hastings Park 」でグローサリー・ストアを営んでいた。女児2人の後、齢45にして授かった長男・貞夫ジョージはことのほか喜ばれたに違いない。3姉弟はリトルトーキョーの子として育っていった。永野萬蔵を嚆矢として半世紀。カナダの日系共同体は、人種差別に喘ぎながらも全体として中産階級への階段を上り始めていた。

 だが、第二次大戦への大きなうねりは、満州事変以後、北米の日系社会全体を呑み込んでいった。1933年、日本は国際連盟を脱退して西洋列強と決別した。軍部が台頭し国民の血税はどんどん軍事費に吸い上げられていった。資源の不足はアジア諸国から調達するしかなかった。 1937年には中国との全面戦争に突入した。南京虐殺が赤裸々に報道されるや、バンクーバーでは日系人への嫌がらせ、馘首が横行した。

 1941年初頭、カナダ政府は開戦に備えて、日本人の再登録を開始する。一方、「外務省の特務機関」ともいえる森井悦治は、時局委員会を通じて「秘密裏に金銭、スズ箔、医薬品、慰安袋を集めていた。一世たちにとっては日本の軍事政策は疑問の余地なく正しいと信じられていた」(ケン・アダチ)。敢えて反対する者などいなくなった。北米の日系人たちは、開戦前に既に見えない檻に追いやられていたのである。(次号に続く)

[文・田中裕介]